[書籍]ビルマ参戦記
[著者]深川研平
[発行](1985年8月)
終戦から年月が経ち、日を追うごとに戦争の記憶が薄れている中にあって、戦争経験者が残してくれた体験記は貴重な資料である。今回紹介する本は、その中でも私が最も信用している本である。本書は14章で構成されているが、それぞれの章ごとに私の所感を述べることとしたい。
■第1章 まえがき
本書の主人公は、2歳の娘を持つ明治生まれの青年である。昭和19年6月3日に赤紙召集を受け、昭和22年3月に帰還するまで、ビルマ(現ミャンマー)での戦跡を記したものである。”まえがき”だけでも、出征する心境は死への覚悟と諦め、そして苦悩が読み取れる。当時は戦争へ行かないという選択肢はなかったであろう。また「最悪の作戦」といわれたインパール作戦の失敗により敗退・転進を余儀なくされている中での出征である。本人は出征先は知らされていなかったが、詳細に記録を残していたことを考えれば”生への強い意志”があったと考えられる。
■第2章 ビルマ作戦の意味するもの
ビルマでの戦闘は南方の安定を目的としたものであったが、結果的に敗退による作戦の度重なる変更により、一貫した目的が定まらなかった。結果としてビルマ作戦は最悪の状況となり、著者はこの戦闘を「ビルマ作戦は日本の戦争を端的に表している」と表現している。戦争という特殊な状況であるものの、失敗を恐れないことも大事だが、一度立ち止まり、やめる・中止することは決して”負ける”ことではなく、次につながる一歩だと思う。これは現代の私たちの環境でも同様である。そんな判断ができる人物がいたなら、状況も変わったかもしれない。
■第3章 召集令状
覚悟はしていた召集令状を受け取った心境はなんとも言い難い。愛娘からの一言「父ちゃんは兵隊さんにいくねえ」との問いに”胸をえぐられる”とある。そんな中でも周囲からは激励され盛大に見送られ、複雑な心境だったであろう。入隊先は野戦病院要員であったため、戦闘に出ることはなかったが、死と隣り合わせであることには変わりない。軍事教育でも「お前たちのような兵卒は葉書1枚あればなんぼでも集められる消耗品だが、軍靴は簡単に補充できないから大事にしろ」と言われ、人の命より靴の価値が重んじられた時代である。時代は違っても私たちと同様、家族や友人と別れたくもなければ、幸せに暮らしたいはずである。令状1枚で人生が変わる怖さや時代の状況は、現代の私たちでは想像もできない。
■第4章 門司港出帆比島(マニラ)
戦地へ向けて約1か月の船旅(輸送船ダーバン丸)である。通常は4~5日で着港できるが、主に夜間に進行したため時間を要した。時折、故郷の港が見える度、帰りたくなる心境もつづられている。しかし、”船上”の長旅は、そこもまた”戦場”だったようである。時期は7月の盛夏であり、シラミとの闘いが始まる。兵隊4千人は何万何十万というシラミの大群に、負け戦を強いられたが、敵魚雷攻撃により海に投げ出され、さすがのシラミも海水で撃沈されてしまう。また、寄港した台湾やマニラでは果物の話であったり甲板でのスコール浴など、戦地に赴く状況を忘れさせるエピソードも描かれている。この1か月は窮屈な生活であったが、それでもこれから始まる戦闘を思えば一時の人間らしい時間だったのかもしれない。
■第5章 比島から仏印(ベトナム)上陸
同じ軍隊であっても気を許すことはできない。”員数”問題である。第3章でも触れたが兵隊の持ち物は私物ではなく「官給品」である。したがって、帽子であれ靴であれ飯盒であれ、必ず数が合わなければならない。紛失すれば当然のように、他の兵隊の物を盗み”員数を合わせる”のである。軍隊では盗った者より盗られた者が悪者になるのである。著者も帽子を盗られたが、他人の物を盗む度胸もなく途方に暮れていると、戦友が盗ってきてくれる。心が優しいと言えば聞こえはいいが、戦時下においては、その優しさが命取りになるのではないかと内心呆れてしまった。しかし、その後の魚雷により輸送船が沈没するが、戦友との出会い、退船時に筏との遭遇、救助船による最初の救助、体調の回復など、ある意味幸運なことが続く。人生では何が起こるかわからないが、身勝手な行動・言動をせず、他人への思いやりを忘れなければ、必ず自身に帰ってくる(逆に身勝手な行動・言動は身を亡ぼす)と改めて感じるエピソードである。
■第6章 仏印からビルマ(モーメント)へ
輸送船沈没から救出され、しばらく休養することとなる。そこでは現地の動物(オオトカゲ)や買い物、現地人との交流が描かれている。戦地にも関わらず、自分と妻に財布を購入しているが、そういった行動一つひとつに”生きて帰る”との思いが伝わってくる。そこからは、いよいよビルマに向けての行軍であるが、ビルマへ軍事物資を運ぶために建設された、タイ南部のノンブラドックからビルマまでの約400㎞の”泰緬鉄道”が建設された。5年はかかると言われていたが、1年3か月で完成しており、作業員には日本軍だけでなく捕虜や現地労働者も多数投入された。無理な突貫工事が続き「鉄道のレール1本に1人の死亡者があった」と言われたほどである。これが戦後に問題視され、摘発を受けた戦犯は絞首刑となっている。そんな泰緬鉄道に乗ってビルマに向かうのであるが、列車の脱線事故が起きる。橋梁を通過する際に16両のうち前方の8両までは無事に通過したものの、9から15両が谷底へ転落している。最後の16両目はかろうじて転落を免れたが、この16両目に著者は乗っており、かすり傷ひとつ受けていない。ここでも幸運が訪れたのである。しかし、戦友の谷底からの悲痛の叫びや川を染める鮮血・死臭など目の当たりにすることは、生きながらえている者にとっても、死以上に苦しいことなのかもしれない。
■第7章 モールメンからニヤンレビンへ
泰緬鉄道の終着駅タンビヤザに到着し、いよいよビルマ戦域に入ることとなる。これまで著者は魚雷による輸送船沈没(第5章)は経験しているものの、実際の戦闘は未経験であった。(そもそも野戦病院要員であるが)到着したモールメンは連日の爆撃により街の荒廃は著しい状況であり、ここで初めての空襲を経験する。地対空の戦闘であるが、地上からの高射砲は全く応戦できず、敵の空襲にされるがままであった。逃げ込んだ防空壕(2人用)では、上官がうつ伏せで震えていたとある。初めての空襲で圧倒的な戦力の差を見せつけられ、上官の震える姿を見たとき、著者は何を思っただろう。意味のない戦闘をしているのではないか、生きて帰れるのかなど様々な思いがあったと思うが、私は”それすらも感じていなかった”と思う。戦況から劣勢は明白であることは感じ取ったはずだが、目の前の状況をどうするか、そんな場当たり的な対応で精一杯であったろう。軍隊という組織は統制がとれており目的に向かって進むことは容易だが、臨機応変な対応は難しい。様々な組織やコミュニティーに属する我々も、自身に置き換えて変化に対応できる意識や行動が必要だと強く感じた。その後も度重なる空襲に見舞われるが、至近弾はあるものの大難はなく、ここでも幸運に恵まれている。
■第8章 野戦病院の開設(ニヤンレビン)
ニヤンレビンに到着し、断作戦(連合軍の物資ルート遮断作戦)が開始される。ここでは野戦病院が開設されたが、戦況緊迫の中にあって最前線から遠く、戦闘はなかった。そんな中、物資は底をつき補給もない状況が続く。その代替として車両から牛車となり、物資の運搬や餌やりを兼ねた水田の草刈りなど、40頭の牛を操るのが仕事となる。兵隊にも関わらず牛飼いの多忙な日が続き、牛も飼主を覚えてなついてしまう。もはや原住民と変わらない生活であるが、そんな状況が安心できるのは不思議なものである。物資不足は車両だけではない。ある日”新兵器到着”の連絡があり、受け取ったのが「竹槍」である。戦車や爆撃機で攻撃してくる敵に、竹槍と精神力で立ち向かわなければならない。笑い話ではなく、これがビルマ戦末期の実情であろう。著者も「竹槍を持って戦闘教練していると、現地の子供たちが私たちを見て、竹を担いで兵隊ごっこをしていたが、怒る気にもなれなかった」とある。この時すでに、兵隊の皆が敗戦を自覚していたと思われる。兵卒だけではなく上官にも心境の変化がみられる。野外での戦闘教練中に敵機が急に襲来し、最初に気づいた上官(教官)が何一つ号令をかけることなく防空壕に飛び込んだ。上官は頭だけ覗かせ「兵隊はそのまま動くな」と号令を出す。著者は”動けば敵機に気づかれるから”と回想しているが、私は上官が”敵が兵隊に気をとられれば自分は助かる”と思ったのではないかと分析している。戦況悪化で勝てる見込みはないことは重々わかっているはずである。誰もが少しでも生きていられる方法を探していたのではないだろうか。ちなみに上官の号令に従う者は一人もいなかった。
■第9章 エニ駐留の20日間
戦況悪化のため輸送が思うようにできず、本体と別れエニ駅付近に駐留することになる。著者は当時知りえなかったが、この時期、日本軍はインパール作戦に失敗し、次々に兵団を突破され転進に次ぐ転進を余儀なくされていた。5月10日には首都ラングーン(現ヤンゴン)も敵の手に落ちている。著者の状況も、朝は敵機の飛行音に始まり日中は前線での猛爆、日暮れと共に終息し、夜には日本軍の敗走劇が繰り返される毎日である。そんな中、重大命令が伝えられる。決死隊の出動命令である。爆弾を抱いて敵の戦車の下に飛び込み、敗走する友軍の時間稼ぎをしろというのである。いわば捨て石である。自ら志願するものは一人もおらず、班長はくじ引きで決めるという。そのくじで一番に決死隊を引き当てたのが著者であった。生きて帰れぬ作戦に今度ばかりは覚悟を決め、遺髪と伝言(遺言)を戦友に託している。著者はこの時の心境をあまり記していない。決死隊といえば特攻隊を思い描く人が多いと思うが、戦地でも意味のない無駄死に作戦が繰り返されたことだろう。それでも命令であれば従わざるを得ないのが戦争というものであろう。前線へ順次出発していたが、戦況悪化で前線に出ることもできなくなり、著者は出動することなく、決死隊は解散となった。ここでもまた幸運であった。ちなみに先発した決死隊は遂に帰ることはなかった。生死とは紙一重である。
■第10章 転行進
その後は36日間の命令なき転進を続けるわけだが、検問所では「命令なき転進はまかりならん」と前線復帰を命令される。前線復帰を装い身を隠していると、”前線復帰せよ”と命じた検問所が焼き払われ、慌てて逃げているのである。軍の命令もいい加減である。転進が長期化するにつれ、原住民から食料を調達し、時には大切に植えてあるヤシの実(ヤシの木の本数で貧富がわかる)を奪ったりと、反日感情が高まることとなる。時には原住民の案内人から敵陣に誘導されることもあった。生きるためとはいえ、現代では考えられない略奪行為である。それでも歩けなくなる者は、手榴弾1個とともに置き去りにされるという。著者も日射病で動けなくなるが、戦友が残って見守ってくれた。つくづく良い戦友や幸運に恵まれていると感じる。
■第11章 キムンジョンから終戦まで
危険地帯を抜けようやく命令なき転進が終わる。そこでは野戦病院を開設し、前線傷病兵を受け入れている。著者は列車で毎日到着する60名以上の傷病兵を搬送する任務を担っていたが、動けない者、蛆が沸いている者、既に死亡している者など様々である。そんな激務の中で著者もマラリヤに倒れてしまう。時は8月13日、敵機の空襲と思いきや、数千枚のビラがまかれ”ソ連の対日宣戦布告”とある。ソ連とは不可侵条約を締結していたにも関わらず、日本の戦況悪化に乗じた行動である。翌8月14日には”日本人投降票”がまかれ、投降票を持参した者は命を保証するとある。日本では一般的に玉音放送(国民に降伏が公表された日)のあった8月15日が終戦の日とされている。8月14日はポツダム宣言(無条件降伏勧告)受諾の日であり実質の終戦であるが、ビルマにいる兵士には何の情報もなかったことだろう。本書でも「日本兵の戦意喪失を狙ったものだろう」と記されているが、錯綜した命令、物資不足、戦況悪化を見れば敗戦は濃厚であり、内心としては安堵していたのではないだろうか。
■第12章 無条件降伏
「堪ヘ難キヲ耐エ、忍ビ難キヲ忍ビ、以テ万世ノ為泰平ヲ開カント欲ス」昭和天皇による終戦の詔書奉読と訓示が行われた。著者はこのときの心境を以下のように綴っている。
肉親妻子と別れて故国を遠く離れてビルマの地にて困苦欠乏に耐え、多くの戦友を失いながら、国家の為にと兵は唯一筋に軍を信じ上官を頼みとして指揮命令に従い戦ってきたのに、まさかと思った無条件降伏の最悪の事態を迎え、敵の軍門に降り無残にも裏切られた結果となった
圧倒的な戦力に対し、神国日本を唱え神風を期待し精神論だけで戦い、戦争の長期化、無謀な作戦、指揮命令の混乱など、無駄な被害を出す結果となった。著者も勝てるとは思っていなかっただろうが、胸詰まる心境だったであろう。その後、武装解除となり銃剣や兵器の返納となるが、”菊の紋章は潰して返納せよ”との命令に、「無様に怒を覚えるとともに軍人精神も消滅した」と綴られている。当時、菊の紋章は”天皇の紋章、日本の国章”である。軍人としての意識が消滅するとともに、この時の”怒り”とは敵国に向けられたものではなく、戦争指導者や戦死した戦友への無念に対するものであったと察する。
■第13章 抑留生活
不安の中、トタン(トウンゼ)で抑留生活が始まる。ビルマで捕虜となったのは6万~7万人と言われている。これまでは食料を現地調達してきたが、捕虜となった今では、手持ち在庫で食いつながなければならず、捕虜同士で泥棒行為も多かった。そんな中、内地(日本)から手紙が届く。数通の手紙を受け取る者、1通も便りがない者など様々である。著者は父からの手紙を受け取る。終戦前に出された手紙であるが、その嬉しさをかみしめつつ、妻からの便りがないことに淋しさを感じることとなる。戦争は終わったが、敗戦国として抑留され帰る保証もないが、妻からの便りがなかったことが、返って故郷へ生きて帰る思いが更に強くなったと感じた。
抑留生活はトウンゼ→ゼマトイ→パヤジー→マンダレーと転営し、昭和22年2月28日までの約1年10か月続くのであるが、抑留生活も慣れてくると、民謡や川柳・俳句、帰還に備えて英語の勉強をするようになる。また、倉庫から煙草や日用品を盗み、原住民に売って換金している。その様な者は花札やマージャンが流行りだす始末である。もちろん、そんな盗みができるのは一部の器用な捕虜のみで、大多数の盗みができない者は”おすそ分け”にあやかるしかないのだが、著者は野戦病院にいたことから、包帯と脱脂綿で”お粗末なぬいぐるみ”を作り、原住民に売っていたそうである。他人の者を盗む度胸のない著者(第5章参照)ならではの作戦である。捕虜となっても環境が変われば人の煩悩は抑えられないものだと感じる。現代に生きる我々なら尚更、自身を律しなければならないと反省した。
この時、誰もが思い続けた帰還への期待について詠んだ詩を紹介する。
「帰りたい故郷へ吾が家へ」
生きて帰れそうだと思うと無性に帰りたい。生に執着し労役屈辱忍従と郷愁の心の闘争の中で気の抜けたビールのように人行路にポッカリと穴の空いた様な丸々2年半を若い魂が若い肉体が焦燥にかられ疲れ切った五体を土の床竹の床に横たえたとき、故郷が幻影となって顕れ昨日の日が自嘲してくる。嗚呼、私は無性に帰りたい。日本へ、故郷へ、そして体一杯に故郷の香を吸いたい。嗚呼、私は会いたい、父母妻子にそして故郷の人々に。生き長らえて会うことのできる人生最良の日が近づいているのだ。一夜明ける毎に。その日の希望に踊る私の血潮は疼いている。故国なる妻よ子よ、お前達に大声で唯今と云える日の為に屈辱に耐え、今日も頑張り抜くぞ。
昭和21年7月8日の夜、著者は最愛の妻子の夢を見る。その夢は大きな傷を負った妻が子供2人を抱え、濁流の川を渡ってくるのであるが、長男は生きる力は尽き果てているというものであった。また7月12日にも家族が大病に侵される夢を見る。何か災いがあるのではないかと予感している最中、9月2日に長男死亡の便りが届く。実際には昭和20年8月4日に長男は死亡していたが、父(著者)への便りの前に一足先に長男が伝えてくれたのであろう。幼い長男の会えない父への思いが伝わってくる。
■第14章 復員
昭和22年2月、肺浸潤のため治療しながらの労役であったが、患者送還の知らせが入る。著者は該当者の一人として帰還することが決定する。一般の者よりも早く帰還することができることとなった。帰還患者の一行60名はマンダレー収容所を出発し、ペグー→ラグーンからミンガラドン港に到着する。3月5日にイギリスの病院船で出航した。行きの輸送船ダーバン丸(第4章参照)はすし詰め状態でシラミとの闘いもあったが、帰りは個別のベッドで看護師もいたとある。戦争の結果とは裏腹に良い環境での帰国は皮肉なものである。かくして2年4か月に及ぶビルマ参戦を終え、晴れて日本に帰還したのである。
●最後に(管理人より)
本書はおそらく購入することはできない。図書館や官公庁等に戦争資料として残っている程度であろう。冒頭にも述べたが、私がなぜ本書を知っているのか、なぜ信用しているかというと、本書の著者が私の祖父だからである。当時、私は小学生だったが、祖父が知り合いに頼んで書籍化していたのを薄っすら覚えている。実は私自身も製本された本書を持っていないが、著者が残した最終に近い原稿を祖父が亡くなった後に保管していたのである。祖父はいつも優しく、そして本が好きだった。それを受け継いだのか私も本が好きだ。戦後、祖父は3人の子供を産み、合わせて4人の子供を育て上げた。その次男の子供が私である。長男は早くに亡くなっている(第13章参照)ので、実質、私の父が家長となっている。祖父は戦争のことなど一切口にすることはなかった。いつも優しく一緒に遊んだり、色々なことを教えてくれた。私はそんな祖父が戦争に行っていたと思ったこともなかった。今回、本書を読み返し、祖父の壮絶な過去に触れ、改めて本の良さを実感した。本は会うことのできない人に会うことができる。もちろん実際に対面することはできないが、本を通じてその時の”人”に会うことができる。私も”若かりし頃の祖父”に会い、同じ時を過ごした気持ちになることができた。そんな本を残してくれた祖父に感謝するとともに、これからも本に触れあっていきたいと思う。
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